私は授業中、生徒さんたちによく「自分の体の声を聞いて、無理をしないように」と言います。身体の声を無視して無理し過ぎて怪我をするのは問題です、しかし怠惰な心の声に耳を傾けてサボるのもいただけません。頭、思考は言い訳をする天才で、サボるための言い訳をどうにかして考えだしてしまうので厄介です。
私は本当に好きなことに対して集中し過ぎ、無理し過ぎる傾向がありました。禅寺で武術の練習していたときも、和尚に練習し過ぎないよう、もっと休むようにとに説得されたこともありました。練習は本当に大変でしたが、練習すればするほど上達したので、多少身体のどこかが痛くても中毒のように練習し続けました。自分は努力していると思ったことは一度も無く、ただ単純に好きで、成長するのが楽しくて練習に明け暮れました。しかし、練習し過ぎたのか、自分を追い込み過ぎたのか、結果的にアキレス腱を完全断裂してしまい、武術から徐々にヨガの方に力を入れるようになりました。
私は禅寺で3年間、武道学校で3年間武術の練習を通して禅宗を学びました。私がいた当時、寺の僧侶のほとんどは、和尚がいない時はこれでもかというくらいサボっていました。彼らの多くが未成年の小坊主で、家庭の事情でお寺のお世話になっている子が多く、少年院上がりの子もいました。彼らを武術を通して厳しいながらも親身になって指導する和尚の度量には感服するしかありませんでした。
武術学校には約1000人の生徒がいましたが、彼らの多くは怠け者で、才能のある生徒が幾らかいて、とんでもなく高いレベルの生徒が極少数いました。そして、その極少数の生徒達は、明らかに他の生徒達よりも練習熱心で長時間練習していました。彼らは更にレベルを上げ、どんどん上手くなっていきました。彼らもそれは努力だと思ってはおらず、彼らも武術が好きで練習していました。それほど好きなことに出会えたのは彼らも自分も幸運かつ幸福だと思います。
余談ですが、中国河南省には少林寺があり、その周りに100以上の武術学校があります。私がいた1000人規模の学校で中規模、近くにあった1番大きい学校は1万人以上の生徒がいました。多くの学校が全寮制で中国各地から集まった3歳から20歳位の生徒がほとんどを占めます。他の省、他の地区では武術学校は極僅かですが、その代わり体育学校をよく見かけます。中国のスポーツのレベルが高い理由だと思います。
仏教では一度は出家して僧になり、その後、還俗するのが良いとされています。出家という極端な方に行っても、最後は俗世間に戻るのが、仏陀の教えでいう、中道を行くということなのです。初めから中道を行くのではなく、一度極端な方に行きながらも、一周回って戻ってくる事でより深い理解と洞察が得られるのです。悟りというのは実は当たり前の事で、実は元から心の奥底、そして身体自体が知っていた事であり、それを再発見することなのです。身体は全てを知っていますが、頭、思考がそれを遮って見えなくしているのです。悟りに至るというのは、一度無くして、もう見つからないと諦めていたものが、不意に見つかった喜びに近いかも知れません。大したことではないのですが、見つかった時はこの上なく嬉しいのです。
身体に耳を傾ければ、練習の適量も分かってくるはずです。言い訳の天才である頭、思考の意見ばかり聞かないでください。