形無き形、声なき声

東洋思想の根底には、形無き形を見て、声無き声を聞くというものが潜んでいるのではないか。日本の哲学者、西田幾多郎の言葉で、ある東洋思想の本の冒頭に引用されたこの一文に私の心は大きく動かされました。
この冒頭の文と、本編である老子の道徳経が私の人生を大きく変えたと言っても過言ではありません。

古典的な西洋の芸術はあるがままの姿を写実的に表すのに対して、東洋の芸術は写実的ではない事が多く見受けられます。後に写真技術の発達と東洋との交流で、印象派等の写実的ではない芸術が発展しています。

医療等に関しても死体を解剖する事で得られた事を元に発展した西洋医学と、生体を通した実験結果によって発展した東洋医学は医学の発展というゴールは同じでも、視点が全く違っていて、とても興味深く感じます。どちらも一長一短があり、上手く組み合わせる事でより良い効果が得られるのではないでしょうか。

哲学に於いても、西洋と東洋では視点が違っています。元々東洋では哲学という概念が希薄で、それは’宗教と密接に繋がっていましたが、西洋哲学を元に東洋哲学は体系化され、哲学として認識されるようになったのではないでしょうか。西洋哲学と東洋哲学の大きな違いは、西洋では我思う故に我ありというデカルトの言葉があるように、先ず主は我であり、それに対して東洋では我は無いという、見事に全く違う視点です。

チャクラという概念は典型的な東洋的概念で、まさに形のない形であり、多くの人にとって、それを体験し理解するのは難しいので、私のクラスでは多くの人が理解しやすい西洋的視点である解剖学を通してポーズを説明することが多いです。練習を進め、深めていくことで、やがてその形無き形が見えてくるのではないでしょうか。

多くの物事において、全く異なる視点から見ることで、お互いを補い合い、より深い発展と理解ができるかもしれません。